就職活動中に某アチーブ○メントの近藤○さんの話を聞いている中で
、「全ての人に時間は平等とよく言いますが、本当に時間は全ての人に平等か?」という仮説に対して、
「時間はすべての人に平等にあるわけではない」というものがありました。
この内容は、
・一人で全てをすれば、その人の持っている時間(1日24時間)しか活用できない。
・しかし、他人(協力者)を活用することで、その時間は1日100時間でも200時間でもなる。
こういうものでした。
当時は、以外にすんなり納得してしまったわけですが、最近になってチームタスクと自分自身がすべきことの狭間に立ったとき、この答えってどうなんだろうと思うようになったわけです。
結局この回答の切り口って、「あるタスクを達成するため」という切り口でしか物事を見ていないんじゃないかと。そもそもの質問「全ての人に時間は平等か?」という「人主体」の質問に対して、「タスク主体」の間違った回答をしてるんじゃないかと。
まぁ業務的に「時間」を考えたら上記の答えは正しいことなんだろうけど、今回の質問ってあくまで対象は「個人」であるわけで。
…やっぱり論理のすり替えですよね。
けど(汚い論理のすり替えはあったものの)今でもこれは正しいことを言っていたんだなと思っています。タスク管理と言う観点では決して間違ってないと思いますから。(個人的には「人主体」で考えることが多いので、「人の時間は平等で1日24時間しかない。だからこそその24時間を的確に、そして効率的にタスクを処理しないといけない」と思っていますが。)
最近、よく話をしていて「自分が出来ないなら出来る子にまかせればいいじゃない」と言われることがありました。
これってあくまでタスク処理の観点で言うと正しいと思うんですよ。その方が”効率的”に”処理”を行えますから。
でもそれはあくまで主軸が「タスク処理」になってるからで正しいわけあって、「個人の能力の向上」という観点では背反的なものだと思うんです。
本当に「成長したい」とか「学びたい」といってる人間の台詞には思えないわけです。
まぁ仕事をする上ではどちらも重要な要素だとは思いますがね。
【今日の反省】
・タスク管理がおろそかです(反省
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